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歴史・文化

周南市美術博物館

常設展には、周南市出身の詩人 まど・みちお さんの作品の展示コーナーや、徳山の歴史を知ることができる特設コーナー等があります。また、時期によって様々な企画展が開催されています。ミュージアムショップでは、オリジナルグッズや企画展に合わせた関連グッズなども販売されています。
 
〒745-0006 周南市花畠町10-16
TEL:0834-22-8880
休館日:月曜日、年末年始(12/29~1/3)
※月曜が祝日の場合はその翌日

湯野温泉薬師

戦国争乱のまっただ中にあった天正年間(1573-92年)、河村三五兵衛という男の夢に薬師如来が現れ、「この土の底に埋もれている仏を掘り出してお祀りをせよ、温泉が湧き出て繁盛するであろう」と告げた。さっそくお告げに従って掘ると、温泉と薬師如来像が現れたと言われ、この薬師如来を祀っている。

〒745-1132 周南市湯野4188−60

山田家本屋

江戸時代に萩藩の重臣・堅田(かただ)氏の家臣を務めた山田氏。その在郷住居を移築・復元した、約82坪の茅葺平屋建ての建物です。室町時代の武家屋敷の趣と民家風の素朴な構えを併せ持っています。山口県指定有形文化財。
 
〒745-1132 周南市湯野4202-2

毛利家墓所

初代徳山藩主 毛利就隆と歴代藩主及びその妻子の墓所です。就隆は延宝2年(1674年)に大成寺を開いて菩提寺としました。就隆の墓石は高さ約4m、唐破風付本瓦葺屋根の覆屋で囲んだ立派な墓所です。
 
〒745-0836 周南市慶万町
TEL:0834-22-8677(周南市教育委員会 生涯学習課)

児玉神社

大正12年(1923)に地元有志の発起により、児玉源太郎を祭神として創建されました。社殿は、神奈川県江ノ島に建設されていた神殿と附属建物を移し、旧邸址である現在地に建立したものです。境内には児玉源太郎ゆかりの記念碑が多数建立されています。
 
〒745-0005 周南市児玉町1-4

遠石八幡宮

古くは平安朝の時代から多くの参拝者が訪れる有数の神社として親しまれてきました。緑に囲まれた高台に広がる境内は、市街地とは思えないほどの自然と静けさに満ちています。推古天皇30年(622年)の春、「この地に跡を垂れ国民を守らんとここに顕わる」との宇佐八幡大神のお告げによりご神霊を奉安し、和銅元年(708年)この地に社殿を造営したのを創建としています。平安時代には京都の石清水八幡宮別宮となり、本朝四所八幡の一つとも称されました。江戸時代には毛利徳山歴代藩主の崇敬篤く、祭礼には諸国からも多くの参詣を集めて門前は賑わいました。その後も周防国の大社として信仰は広がり、明治時代の社格では県社となり、現在も八幡大神のご神徳を仰ぐ人たちの参詣が絶えません。
 
〒745-0816 周南市遠石2丁目3-1
TEL:0834-32-8888

興元寺

中世の頃、野上(徳山の古名)の領主であった杉元相、元宣父子の宝篋印塔があり、市の文化財に指定されています。市内最大のイチョウの雌木があり、県内でも有数の巨樹です。

〒745-0851 周南市徳山一ノ井手5122
TEL:0834-21-1409

龍文寺

曹洞宗の名刹で室町時代の大内氏の重臣であった陶氏の墓所があります。市文化財の鉄造茶釜や楼門、また県の無形民俗文化財に指定されている「長穂念仏踊」は有名です。
 
〒745-0125 周南市大字長穂門前
TEL:0834-88-1072

陸軍大将子爵児玉源太郎卿遺髪塔

墓所の中央が児玉家累世墓、向かって右側が源太郎の兄次郎彦(幕末の政争で没)・久子夫婦の墓で、左側が児玉源太郎の遺髪塔です。
遺髪塔の側面には、明治39年7月24日に死去、同7月28日に東京青山に葬られ、同9月8日この地に遺髪が納められたことが記されています。
現在、源太郎の墓は東京都府中市の多磨霊園にあります。
 
周南市徳山

児玉源太郎揮毫「皇威輝四海」碑

この碑は、明治30年(1897年)に戸田村が建てたもので、文字は児玉源太郎の揮毫によるものです。
高さ1m85cm、幅1m20cmの自然石に、「皇威輝四海」(こうい しかいに かがやく)と彫られています。裏面には、戸田村から日清戦争(1894~1895年)に従軍した村民30名の氏名を記しています。
 
桜田八幡宮

児玉源太郎像

児玉源太郎像製作委員会が、児玉源太郎の顕彰を目的として児玉公園の一角に設置することとし、平成23年7月23日に除幕式が行われました。
オリジナルの像は、国立台湾博物館が所蔵する新海竹太郎作の像です。
 
〒745-0005 周南市桜馬場通1-3(児玉公園内)

徳山七士碑

徳山七士碑は、もとは遠石にあったものが現在地に移されました。篆額は毛利元徳、撰文および書は杉孫七郎です。七士が殉難した当時の徳山藩主毛利元蕃は建碑よりも前に亡くなっていますが(明治17年)、その実弟でかつ毛利本家を継いだ元徳による篆額は、七士の魂を慰めるという意味においても大いに意義のあることだったと思います。
 
〒745-0005 周南市児玉町1-4(児玉神社境内)

浅見安之丞屋敷跡・児玉次郎彦誕生之地

児玉次郎彦(源太郎の兄)は、浅見栄三郎の次男で児玉家を継ぎました。文久2年(1862年)から周旋方として京師で活躍し、帰藩後は藩の大目付役として藩政の重責を果たしました。
その後、興譲館の助訓役兼寮長となり、尊王攘夷のために活動しました。元治元年(1864年)8月9日に河田佳蔵らが「俗論派」の富山源次郎を襲撃した際の一味とみられ、同8月12日早暁に「俗論派」によって自宅で暗殺されました。時に23才でした。

周南市三番町

児玉家屋敷跡・児玉大将産湯之井戸

児玉源太郎は、嘉永5年(1852年)2月25日にこの地にあった児玉家の屋敷で生まれました。当時使用していた井戸が保存されており「児玉大将産湯之井戸」の標石があります。
児玉家は源太郎の父半九郎の死後、安政5年(1858年)に浅見栄三郎の次男、次郎彦を源太郎の姉久子に迎えて家を継がせました。次郎彦は藩の大目付等を務めましたが、「正義派」の一人として活動したため、元治元年(1864年)8月12日早暁、「俗論派」によってこの屋敷の玄関で非業の最期を遂げました。  
次郎彦の死後間もなく、児玉家は藩の命令で家名断絶、屋敷は没収されましたが、「正義派」が政権をとるや、慶応元年(1865年)7月13日、源太郎が家名を相続し、現在児玉神社がある場所に新しい屋敷が与えられました。
その後、源太郎は元の屋敷跡を買い戻して、明治36年(1903年)に郷里の後進育成を願い、近代的な私立図書館「児玉文庫」を開設しました。しかし、児玉文庫は昭和20年(1945年)、太平洋戦争中の徳山空襲で焼失しました。

周南市毛利町

高瀬峡

島地川上流にあり、四季の織りなす自然の美しさを満喫できる美しい渓谷です。渓谷にそって2.2kmの自然遊歩道を歩けば、切り立った岩や奇岩の間をぬう水の流れ、滝のしぶきが訪れる人を魅了します。
 
〒746-0101 周南市高瀬
公共交通機関:JR山陽本線「徳山駅」からバス約1時間
       「高瀬峡入口」下車
自動車:山陽自動車道「徳山西IC」から約40分
問い合わせ:周南市観光交流課(TEL: 0834-22-8372)

大玉杉

高さ34m、胸高幹周は10.5m。県内でもっとも大きい樹木であり、たびたびの落雷や風害にもかかわらず今も威容を誇っています。
 
〒745-0122 周南市大字須々万本郷(飛龍八幡宮境内)
公共交通機関:JR山陽本線「徳山駅」からバス約20分
       「桜久保」下車、徒歩約5分
自動車:JR山陽本線「徳山駅」から約20分
問い合わせ:飛龍八幡宮(TEL 0834-88-2238)

八十八ヶ所遍路

馬島を一周する八十八ヶ所遍路。
道はよく整備されており、南側遍路は高台にあるため景色もよく、天候の良い日には遠く四国や九州が望めます。
コースは馬島港からは途中、御大師堂や「くろや大明神」を経由して柳ヶ浦地区を通過し、再び馬島港へ戻ってきます。

〒745-0057 周南市大津島

桜街道

刈尾から本浦地区へ続く道の周辺にはたくさんの桜の木が植樹されており、春には美しい通りに変身します。
また、柳ヶ浦地区や回天記念館周辺にも多くの桜が植樹されており、訪れた人の目を楽しませます。

〒745-0057 周南市大津島
一般財団法人
周南観光コンベンション協会
〒745-0033
山口県周南市みなみ銀座1-26 TOKUYAMA DECK D1 1階
TEL.0834-33-8424
FAX.0834-33-8425
mail:infoshunan@ccsnet.ne.jp
山口県知事登録旅行業第地域131号
全国旅行業協会正会員
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